かつて子どもたちの声が響いた学び舎が、地域の人が集う醸造所に-。国内外のブルワリーでビール醸造に携わってきた植竹大海さんが2022年8月、廃校になった鶴居村の茂雪裡(もせつり)小学校跡に開設したのが、「ブラッスリー・ノット」です。「クラフトビールを文化として定着させたい」と、自ら醸造するほか、ブルワリーの設立サポートやアドバイザーとしても活動しています。
体育館に4つの仕込み釜、醸造作業を効率化
埼玉県出身の植竹さんは、地元の醸造会社のイベントで飲んだクラフトビールのおいしさに刺激され、22歳でビール醸造の世界に足を踏み入れました。専門学校でバイオテクノロジーを学び、「実はキノコ栽培の企業への就職を希望していた」(植竹さん)そうで、大きな方向転換でした。埼玉県のクラフトビールメーカーに就職したのを皮切りに、ビール醸造の技術を磨き、上富良野町の忽布古丹(ホップコタン)醸造の設立やカナダ・トロントのブルワリーでの醸造、国内のブルワリーの醸造技術サポートなどに携わりました。
独立を考え、クラフトビールの醸造所が少ない釧路・根室管内に着目。廃校になっていた茂雪裡小に出会い、柱がなく天井の高い体育館を「ビール工場にぴったり」と気に入って、ここでの開設を決めました。元小学校の活用策を探っていた村も歓迎し、無償貸与。改築や設備導入などの事業費は約2億円で、そのうち目標の1000万円を超える1667万円をクラウドファンディングで集めました。
仕込み釜は「フォーベッセル」という釜が4つあるタイプ。ビールの製造は、①粉砕した麦芽に水を加え、糖化させておかゆ状の「マッシュ」にする②マッシュから麦芽の殻を取り除く③殻から分離した液体を煮沸させ、ホップを投入④煮沸によってできた凝固したタンパク質やホップ粕を取り除く「ワールプール」-という4工程が必要です。小規模なクラフトビールのブルワリーでは、設備の簡略化や初期投資を抑えるために、1つの釜に複数の機能を持たせて、2~3つの釜で4工程をこなすのですが、ノットでは、それぞれの機能に特化した釜を4つ備えています。これによって、4工程を同時に進めることができ、効率化や大量の仕込みを実現できるようになっています。
タンクは4000リットルと道内のクラフトビールブルワリーの中では比較的、大規模なものが10基。初年度は8月から8カ月間で約8万リットルを醸造し、24年度は10万リットル程度を目指しています。
フラッグシップは5種、地元の旬生かした季節限定も
ノットのフラッグシップビールは5種類。ビールのタイプでいうと、ベルジャンウィットの「FLOWER(花)」とペールエール「BIRD(鳥)」、IPA「WIND(風)」、Double IPA「MOON」の「花鳥風月」に加え、ベルジャンIPA「DOTO(道東)」の5種類。大手ビールメーカーのビールしか飲んだことのなかった植竹さんがクラフトビールに〝はまった〟順番だそうです。
FLOWERは大麦麦芽をベースに小麦麦芽とオーツ麦芽を使い、ベルジャンというフルーティーな香りのベルギー酵母のほか、香り付けにオレンジピールとコリアンダーシードも入っており、少し濁った、名前の通りスパイシーで華やかなビールです。BIRDは一般的なペールエールより色合いは淡く、フルーティーで軽やかな飲み口。WINDはドライで苦みがあり、華やかさも併せ持つIPAらしい味わいです。MOONはアルコール度数8.0%と高めで、麦芽のこくやホップの香りや苦みもガツンと感じられるパワフルなビール。DOTOは道東地域とふるさと納税限定のビールで、ベルジャン酵母の華やかさやフルーティーさと、ハーブやシトラスの香りを併せ持つ、複雑さを感じさせる味わい深さがあります。
季節ごとにシーズナルビールもつくります。例えば、秋には収穫した鶴居産のワイン用山ブドウ「山幸」を使ったフルーツIPA「YAMASACHI(山幸)」を仕込み、初冬にリリースします。取材の日は、YAMASACHIがタンクの中で発酵のさなか。水を入れたバケツにタンクから伸びたホースが入っていて、しきりに泡が出ています。ホースを持ち上げただけで、周囲にブドウの香りがたちこめました。「ビールとワインとの中間」のような味わいに仕上がるそうです。
夏には十勝産のトウモロコシを使ったラガー「TOKIBI(トウキビ)」、冬には厚岸産のカキの殻を使ったオイスタースタウト「KEARASHI(気嵐)」などをつくります。KEARASIは殻に含まれる潮の香りやミネラル感が感じられ、厳しい冬の海で育つカキを思わせる力強い濃厚な黒ビールです。植竹さんは「ビールを飲んで、また今年もこの季節が来たなと感じてもらいたい」と話します。
シーズナルビールに地元でとれる旬の素材を使うほか、〝土地ならでは〟の素材も、いつも探しているそう。10月には、釧路市阿寒町で少数ながら栽培されている古代小麦「アインコーン」を使い、グリゼット「WILD FLOWER」をリリース。植竹さんは「阿寒の人たちが、自分たちの地域のビールができたと喜んでくれたのがうれしかった。道東のあちこちのまちを訪れると、ビールの素材になるものがないか、とついつい探してしまいます」と笑顔を見せます。
専用水筒で「量り売り」 地元の人が気軽に次々
ノットの特徴のひとつが、地元の人たちがブルワリーを次々と訪れ、ビールを買っていくことです。ノットのビールは350ミリリットル缶が700円代からと、決して日常的に手ごろに飲める価格ではありません。植竹さんは「旅行に行ったら、地元の人が飲んでいるもの、食べているものを試したいでしょう。地元に根ざした小さなブルワリーがあって、そこで飲んでおいしいねと言ってもらえて、土地のものを楽しむ文化ができたらいいと思っています」と話します。
それもあって、ノットでは国内では珍しいビールの量り売りもしています。グラウラーという炭酸を入れることのできる水筒を持参すると、缶入りの3分の2程度の価格で販売してくれます。植竹さんは「〝ハレの日〟の飲み物の価格ではありますが、昔の豆腐屋さんのように、鍋を持って、その日飲むビールをその日買いに来るブルワリーになれたらうれしい」と話します。
一般的にクラフトビールの醸造所は「ブルワリー」と名付けるところが多いのですが、ノットは「ブラッスリー」。フランス語でビアホールの意味で、単なる醸造する場所ではなく、ビールを楽しめる場所にしたいとの思いが込められています。
植竹さんには、醸造家のほかにもう1つの顔があります。新規ブルワリー開設のサポートやビール醸造のコンサルタントです。ビール醸造は酒税法改正で新規参入のハードルが下がった一方、「装置産業」とも呼ばれ、醸造施設の設置や工場の整備など多額の初期投資がかかります。地方で製造し、都市部のビアバーや酒店に出荷する場合の販路も課題となります。植竹さんは数々のブルワリーでの経験から、醸造技術だけでなく、ブルワリー運営や販路などについても、アドバイスや支援をしています。
併設している売店では、フラッグシップ5種類に加え、シーズナルビール数種類を販売。タップが20並んでおり、グラウラーへの量り売りもしているほか、車のドライバー以外は試飲もできます。
ノットのシンボルマークはエゾシカがモチーフです。鶴居らしい野生生物として、タンチョウや周辺に生息するクマ、キツネなどを使うことも検討したそうですが、「シルエットを使った時に、一番格好良かった」(植竹さん)ことから、エゾシカになりました。そのマークを入れたアウトドアブランドのオリジナルTシャツやパーカー、ビール用グラス、てぬぐいなどのグッズも取り扱っています。
「結び目」の意味を持つ「ノット」。ノットのビールが、人や地域、自然、アウトドアや釣り、音楽などさまざまなカルチャーとの結び目になれば-。そんな植竹さんの願いが、鶴居村の学び舎で実現しつつあります。
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北海道では近年、クラフトビールのブルワリーが急増し、各地で毎年、新しいクラフトビールが誕生しています。単なるブームではなく、ワインでいえば「テロワール(風土)」を生かしたその土地ならではのビールが地域の人々に迎え入れられています。各地のクラフトビールの醸造所を訪ね、つくり手の情熱や思い、ビールのおいしさを伝えます。